新*今日の漢字* 「相」
今日の夜には内孫とママさんが里帰りから帰宅します。
主人はお世話になっているスポーツセンターのお楽しみ卓球大会だそうで、
夕方まで帰って来ません。
残り少ない私のフリータイムを楽しみたいと思います。
では・・・
新*今日の漢字*
「相」 音読み ソウ ショウ 訓読み あい
画数 9画 部首 目
では常用字解で調べてみましょう。
会意 木と目を組み合わせた形。
相は木を目で「みる」の意味である。
盛んにおい茂った木を見ることは、樹木の盛んな生命力をそれを見る者に与え、見る者の
生命力を助けて盛んにすることになるので、「たすける」の意味となる。
たすけるというのは、樹木の生命力と人の生命力との間に関係が生まれたことであるから
「たがいにする、たがいに、あい」の意味となる。
また「すがた、かたち」の意味にも用いる。
見ることは人の生命力を盛んにするという魂振(たまふり)りの力があると考えられた
のである。
それで[詩経(しきょう)、衛風(えいふう)、淇奥(きいく)]の「彼(か)の淇(き(川
の名))の奥(ほとり)を瞻(み)れば」のように、おい茂った草をながめることも、
生命力をたすける魂振りの意味をもつ発想であるとする。
また、見ると言わなくても、しきょう[詩経、小雅、南山有台(なんざんゆうだい)]に
「南山に臺(だい(すげという草の名))有り、北山に萊(らい(あかざという草の
名))有り」とあるように、草が存在することを歌いあげるだけでも魂振りの力があると
され、[詩経]にはそのような発想法が多くみえる。
わが国の[万葉集]にも、「見れど飽(あ)かぬ」「見れど飽かぬも」「~見ゆ」という形式
の歌が多いが、みな同じ魂振りの観念である。
そのような思いで想うことを想という。
(白川静 常用字解 平凡社)より
次に字統を調べてみました。
会意 木と目に従う。
[説文]四上 に「省視するなり」とあって、視(み)ることを字の本義とする。
また字を会意と解するが、どうして省視の意となるかを説くことがない。
[詩、大雅、棫樸(よくぼく)]に「其の相(さう)を金玉にす」とあって、それは本質の
意に見られる。
みるとは、その本質にせまる行為を意味するが、字は樹木を視る意のかいいであろう。
[詩]の祝(しゅく) 頌詩(しょうし)に樹木を歌うことが多く、[衛風(えいふう)、
淇奥(きいく)]「彼(か)の淇奥を瞻(み)れば 緑竹、いい(けものへん+奇が2個)
たり(うるわしく茂る)」また[小雅、南山有台(なんざんゆうだい)]「南山に臺有り
北山に萊有り」の臺・萊はともに木の名。
樹木の茂さまを歌い、これを瞻るという行為が、そのまま魂振りに的にその生命の本質に
せまり、祝頌の意を示すものとされた。
わが国の[万葉集]に「見る」「見れど飽かぬ」「見ゆ」という表現がしばしばみられるのも
同様の発想によるものである。
中略
相が相互の意となるのは、視ることによって両者の交霊が可能となるからであろう。
また助け導く意も、そこから引伸しうるものである。
人相・墓相などのときはソウの音でよむが、それは内在する本質の外にあらわれたもの
という意がある。
後略
(白川静 新訂 字統(普及版) 平凡社)より
「相」はもともと「木を見てその生命力を分けてもらう」ようない意味だったのですね。
確かに、植物好きの私は野の花や名も知らない木の芽吹きなどを見ると妙に元気なります。
古代の人に近い人間なのでしょうか。
さて今日の一枚は・・・
いつも空の写真を撮る窓からの少し下の方の景色です。
奥の中央辺りの白っぽいものが山桜です。
手前の柿の木にはちらほら黄緑色の新芽が出てきました。
陽ざしの影響なのでしょうか、遠くの景色が春霞のようになってしまいました。
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