新*今日の漢字* 「物」
今日は主人がゴルフでしたので、5時起きをしました。
すでに少し眠いです。
では・・・
新*今日の漢字*
「物」 音読み ブツ モツ 訓読み もの
画数 8画 部首 牛
では常用字解で調べてみましょう。
形声 音符は勿(ぶつ)。
勿は犂(すき)で土を撥(は)ねる形で、勿のおとも撥(はつ(はねる))と近い。
[説文]二上 に「萬物(ばんぶつ)なり。牛を大物と爲(な)す」とあり、「もの」の意味
とする。
物の古い字形がなくて確かめがたいことが多いが、勿の甲骨文字・金文の字形は明らかに
耒(すき)で土を起こしている形である。
しかし物については、[詩経、小雅、無羊]に「三十維(こ)れあり 爾(なんぢ)の牲
則(すなわ)ち具(そな)はる」(種々の毛色のもの いけにえのものも備わる)と
あって、犠牲(いけにえ)の牛の毛色がいろいろあることをいう。
勿は[説文]九下 に旗印(はたじるし)の意味とする。
物を牛が耒で耕すの意味の字とするか、犠牲の牛の毛色とするか、旗印とするか、物の
古い字形がなくて確かめることができない。
(白川静 常用字解 平凡社)より
次に字統を調べてみました。
形声 声符は勿(ぶつ)。
勿は犂(すき)で土を撥ねる形。
[説文]二上 に「萬物なり」と訓し、「牛を大物と爲(な)す。 てんちの數は牽牛(け
んぎゅう)より起る。 故に牛に從ふ。 勿(ぶつ)聲」という。
牛は物の大なるものであるから、万物を代表するものである。
また天地の数は牽牛の星座を首として、左動するものであるから、天地の数の首であると
解するが、いずれも字形・字義に関することでなく、字の初義でない。
[詩、小雅、無羊(むよう)]に「三十維(こ)れ物あり 爾(なんぢ)の牲、則具(そな)
はる」の物は、犠牲の牛の毛色をいい、雑色の牛をいう。
勿字条九下 に[説文]は「州里建つる所の旗なり。其の柄の三游(さんいう(ふきなが
し))有るに象る。雑帛(ざぱく(へり飾りのある旗ぎれ))幅半ば異なり。民を趣(う
なが)す所以(ゆゑん)なり。故に遽(には)かなることを勿勿(ふつふつ)とを稱す」
というが、物の字に従うところは三游雑帛の形と異なり、明らかに犂をもって土を撥ねる
形であり、牛耕を示すと思われる。
ただ物の字形は、勿を牛上、あるいは牛旁(ぎゅうぼう)に加えるのみで、犂を用いて
撥土(はつど)している形とはみえず、その毛色をいう形声字である。
卜辞に牛と物とを対文として用いるものがあり、雑色の牛を物という。
牛耕に用いるものが雑色の牛であったから、それを物といったとも考えられよう。
牛耕はいぱんに春秋期以来のこととされているが、爲(為)の卜文・金文の字形は象
(ぞう)を使役する形であり、また卜文に犂を並べて用いる字形があることからいえば、
牛を農耕のことに用いることが全くなかったとはしがたい。
物は物色の意に用いられ、牛に限らず、その毛色をいう。
[周礼(しゅうらい)、地官。牧人]「之(これ)を毛す」の[鄭玄(じょうげん)注]に
「純色を取るなり」とあって、犠牲には純色のものを尚(たっと)び、[秋官、犬人]に
「牷物(せんぶつ)を用ふ」というのも同じ。
牷も純色をいう。
・・・中略・・・
物ははじめ雑色のの牛の意であったが、旗幟偃游(きしえんゆう(吹き流しの類))を示
す雑帛の勿と同声であるため、雑帛の勿が、雑色主の字に含められて万物・物色のいと
なった。
・・・中略・・・
わが国でも、「もの」という語には「もののけ」のように精霊的な観念のなごりが
みられる。
・・・中略・・・
[詩、大雅、じょう(上下に氶+灬)民]「物有れば、則(のり)有り」とは、存在のうち
には、その存在を秩序づける原理があるという古代的な観念を、存在の基本におこうと
したものである。
物はいわば、そこでは一般者としてとらえられている。
わが国においても、「もの」は一般を「こと」は特殊を意味する語であった。
(白川静 新訂 字統(普及版) 平凡社)より
とても長かったですね。
常用字解の「古い字形がなくて確かめることができない」をこの長さが物語っているようですね。
ということは古い字形があったものは確信をもって説文解字に物申しているということですね。
本題に戻りましょう。
「物」の字の始まりは結局のところは「物を牛が耒で耕すの意味の字とするか、犠牲の牛の毛色と
するか、旗印とするか」分からないということですね。
ないものを探すことは大変なことなんですね。
さて今日の一枚は・・・
字統の写真をアップしてみました。
ページの右上から三段目の途中までびっしり書いてありました。
ページを開いた瞬間、気が遠くなりそうでした。
白川先生の苦悩がみえるようでした。
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